まつろわぬ民の名残りと春子さんのジャガイモ

 先日文殊山の麓の楞(りょう)厳寺(ごんじ)においてご本尊と出土品の公開があるというので旧知のМさんと新しくできた戸の口トンネルを抜けて出かけてきた。この寺の出土品の中には石像の顔の部分だけが残り、その形状が何故かアジアではなく中東からギリシャを感じさせるものが含まれていた。

 また寺の横には古墳である横穴(おうけつ)がいくつかあるが、木の葉や土砂に半分埋もれていた。少し登ったところには福井藩主松平忠直卿の隠し墓と家老の狛氏の墓があり、何かと由緒深い寺のようである。

 Мさんは考古学が専門で私が何かと教えていただいている。この「丹南夢レディオ」の冊子に共に執筆していることが縁で、私の素人民俗学の能書きに興味をもたれて訪ねてこられた。そんなわけで時間が合えば連れ立って近くの古墳群や気になる寺社を訪ねている。

 この日も午後から天気も良いので福井市の楞厳寺と鯖江市河和田町莇(あぞ)生田(うだ)の八幡神社の横穴を調べにでかけた。

 この八幡神社は集落を通り山裾の細い坂道を登りつめたところにある。鳥居の奥には広場があり、そこから険しい石段が拝殿に伸びている。

 この神社では「おこない」という仕事始めの神事が毎年正月明けの16日頃に開かれている。積雪を踏み分け厄年の男衆が神社の横の高みから手桶に盛られた大小の餅を「厄落とし」でまくのである。急なこの石段を木地屋の若い衆がお神酒の一升瓶を抱えて駆け下り村の女子供に狼藉を働くなど、これも祭りの賑わいである。

 この地を尋ねようと思ったのは先日、市の文化財の古墳に指定されているまつろわぬ民の名残りである越前市宮谷町大山くい神社の不思議な横穴を訪れたせいである。その時ふと鯖江の莇生田町の神社の横穴を思い出した。しかし、その穴はもうみつけることができなかった。二十年程前には確かに存在していたのにもうどこにも見当たらなかった。

 目的かなわず気を落として鳥居をくぐると神社の前にどこか見覚えのある下手な字で「春子の家」と書かれた看板のある小屋の前にでた。この「春子さん」とは私が以前、木地屋の手習いでお世話になっていた木工所の御母堂で、昼食の惣菜や味噌汁などをいつも準備していただいていたかたである。木地職人の御主人を早くに亡くし女手一つで子どもたちを育て事業を継続されてこられた。この建物は彼女へのメモリアルの場所であるらしい。長い時を経たせいか、地場産業という中での様々な確執も失せてとてもなつかしく思えた。

 当時、私は不摂生がたたって体調がいつも悪く、この木地屋の集落を去ることになったが、曲がりなりにも木地屋のハードな仕事を続けることが出来た要因はお昼を準備してくれた春子さんとご家族の女衆のおかげだと感謝している。

「春子さんの栽培したジャガイモはいちばんおいしかった。」

 晩年春子さんはリハビリを兼ねて畑を耕し野菜などを育てていた。西袋の畑で収穫されたジャガイモを春子さんの長女の小夜子さんからいただき、家で煮物にして何度か食べたことがあった。いまでも家人は「河和田のお母さんの作ったジャガイモがとてもおいしかった」と煮物をするたびに口癖のようにつぶやいている。

ブック カフェ ゴドー店主  栗波和夫

五月の晴れた日に


小川のある裏庭の
木のテラスに羽蟻が湧いた

腹ぺこツバメは低空でひるがえり
朽ちかけた柱には
つぶらな瞳のこどもの青大将
羽蟻の行列を待ち受けている


村国山に白い月がかかる
空っぽの街の
開け放した窓から
蝙蝠(こうもり)が迷い込む
すべての灯りを消し
身を低くして 飛び去るのを待つ

この小さき庭に
けなげに生きようとするものたち
ふいに涙ぐみ
我ら欲望の愚か者
明日に何を残し得るか

五月の日曜日は雲ひとつなく
滋賀県高島市安曇川町田中
弦楽器の弓の弛みが心地よく
小浜 淡海 江南と
「水のある風景」さながら

竹の紙漉く
若狭町武生(むしゅう)から
河口へとたゆたう北川の向こうに
ひかる夏空

栗波和夫

ダリと「糞置荘」と「まつろわぬ民」

 三月、せっかくの休日なのに朝から雨が降り、テンションも上がらず、家でゴロゴロしていたところ、携帯の呼び出し音が鳴った。神楽の浦島さんだ。滋賀の長浜の仕事が雨のため早仕舞いだったので武生までやって来たとのこと。せっかく遠くからやってきたのに店が定休日で途方に暮れているというのである。私も少し用があったのだが、遊びの誘惑にはいつも負けてしまい、二人で出かけることにした。先ずは千福のカレーやダンダダダで腹ごしらえをして、福井市立美術館のサルヴァドール・ダリ展に出かけた。しかしだるかった。

 年譜や資料などはわかりやすく興味深かったが市の主催でもあり予算が厳しいせいか、小品のスケッチが主であった。シュールリアリズムの極致、大胆なダリの作品を期待していた私には少し物足らない企画であった。

 美術館を出ると雨も上がり、雲が切れて青空も見えたりして、気持ちが良かった。そこから軽いドライブ気分で文殊山の麓を道に迷いながらもうろうろしていた。すると田んぼの真ん中の交差点に遺跡の表示板を見つけた。七六六年ころの東大寺領「糞置荘」とのこと。奈良東大寺だからもっとなんか粋な荘園名にすればよいのにと思いながらも、しばし、時を超えて緑なす谷からの風を受けた。あまり臭気は感じなかった。

 「糞置荘」はさておき、つぎは味真野の宮谷横穴の探検に行こうということになり、武生まで戻り国道を左に折れた。仁愛大学を越えて一キロぐらい走り日野山の麓に行くと龍神の祠という石碑が水辺にありそこを左に曲がる。そこからのどかな村のなつかしい風景が開けていた。

 途中、散歩をしていたおじさんに横穴の所在を訊くと、その先の大山咋神社の中の遺跡のことではないかと教えられた。神社の本殿の横には奇妙な横穴が三か所並んでいた。神社の掲示板によると横穴の中から古代の須恵器や人骨が発掘されていたとのこと。横穴に向かい浦島さんと二人で神妙に手を合わせた。

 浦島さんの説によればこのあたりには土蜘蛛と呼ばれた「まつろわぬ民」が住んでいたのではないかというのである。中央権力とは異なった文化を持つ遺跡で同時代の他の古墳の形状とは異質である。

 私事だが祖母の系譜が炭焼きや木材を扱う池田味真野方面の山の民とかかわりがあるようなので、私のご先祖とどこかでつながっているのかななどと思いながら大山咋神社を後にした。

ブックカフェゴドー店主  栗波和夫

真柄十郎左衛門とサルヴァドール・ダリ

興徳寺
 随分長いあいだ会っていないが、武生に真柄という名の友人がいた。顔も忘れてしまったが彼の言葉だけははっきり覚えている。「真柄町の真柄十郎左衛門直隆は私の先祖である」と。怪しいものだが、大太刀を振る仕草までして、あまりに真顔で語るので、その言葉だけは今でも覚えている。

 話は変わるが、先日若き青年と話す機会があった。彼は真柄十郎左衛門の墓のある味真野の興徳寺という寺の近くに住んでいるという。地域の歴史的な事柄に関心があっていろいろ調べているとのこと。それで私の知り合いに古い社寺仏閣の保護と研究をされている人がおられるので彼を紹介してあげたいと思っていたところ、偶然にもそのM氏が店に入ってこられた。強い思いがあるとお互い引き合うのかもしれない。その日はきわめて良い午后を過ごすことができた。

 次の日の夜、またかの青年が訪ねてきた。そして翌土曜日、仕事帰りに福井市立美術館のサルヴァドール・ダリ展に行くつもりだという。ちょうど私も何かのついでに先日美術館を訪れていたのだが、迂闊にもダリ展はまだ始まっていなかった。しかし、真柄十郎左衛門とサルヴァドール・ダリではえらく距離感があるなと思いながらも、古本屋にダリの本があったと私が語ると、即座にその本を見てくると言って青年は出かけて行った。

 その後、市立美術館の帰りにダリの画集を手に青年がまたやってきた。「展覧会のカタログですか?豪華な本なので高かったでしょ」と声をかけると、国高の古本屋で購入したとのこと。しかも700円だという。まさに「ぎょへー」である。思わず声が出てしまった。外国製の美しい大きな本である。ダリの作品を熟知していたはずの私がいまだ見たことのないいくつかの作品が、そこには網羅されていた。三回ぐらい「ぎょへー」である。私が勧めた本のすぐ横にこの画集が並んであったとのこと。つくづく私の目は老眼が進んで節穴であることをいたく自覚させられた。

 「本は本当に必要としているひとのところへ自然と流れてゆく」と、やさしい友人に諭され「さもありなん」と認識した次第である。ちなみに彼はその本の英文解説を辞書を片手に何日もかけて読み込んでいた。

 朝倉の武将真柄十郎左衛門、9尺5寸の大太刀を姉川の決戦で振り回し織田、徳川連合軍と激突する。一方サルヴァドール・ダリ、2メートルの巨大なフランスパンを抱えて芸術の前線ニューヨークの埠頭に上陸する。なんとも奇妙でシュールな取り合わせである。

ブックカフェゴドー 店主  栗波和夫

浅水の早苗ちゃん

泰澄寺
 フランス、ボルドーを拠点に活躍していた舞踏家カルロッタ池田が2014年9月24日肝臓がんで亡くなった。また先日、山海塾を主宰する天児牛大(あまかつうしお)がフランス政府芸術文化勲章コマンドール章を受章した。お二人にはもうずいぶん前に武生で何度かお会いしたことがあった。訃報と誉れ高き受章を新聞紙上に見つけ、あれから長い時間を経たこと、そして遠く異邦の地でそれぞれの表現活動を極められていたことにひとり万感の思いがあった。

 1970年代の終わりごろ、越前陶芸村のooさんが暗黒舞踏派「背火」を主宰する室伏鴻氏を伴い、武生の私の店(ゴドー)を訪れた。要件はこの地に「背火」の根拠地を作りたいので、支援して欲しいとのことであった。暗黒舞踏派については学生の頃京都で舞踏家カルロッタ池田の「アリアドーネの会」の衝撃的な舞台を見て、いたく感動していたので二つ返事で協力を約束した。当時カフェに出入りしていた若い人たちを誘い福井市郊外の山間部、五太子村の養蚕場であった大きな古民家を改修し、そこに道場と舞台を建設したのである。舞台公演には日本全国から著名な方々など、意識的な観客が多数訪れた。当時、五太子というこの谷間の小さな村は公演を待つ観客で長蛇の列であった。今思えば懐かしい限りである。

 話は変わるが近年私は白山信仰と泰澄大師がなぜか気になっている。暇なときには鯖江の御本山から北陸道を道なりに北上し浅水あたりを徘徊していた。去年の秋も泰澄寺のお祭りの日に絵馬を見せてもらいに友人と訪れた。台風のせいで祭りは中止になっていたが、雨も上がり日差しも出て気持ちの良い午後であった。世話係の人がおられたので、本堂に上げていただき細部まで見学することができた。古びた絵馬の中に泰澄寺からの風景が描かれていていた。小高い本堂の前は水辺で荷船が散見され、遠くに雪を帯びた白山が眺望されていた。何故か暗示的で不思議な絵馬であった。

 この寺の石段を降りながら最近知り合いになった浅水在住の考古学者のМさんの話をしていた。すると下のほうから笏谷の石を踏んでMさんが登ってこられたのだ。偶然にしても出来過ぎで、まるでみんなが泰澄さんに引き寄せられているような気がした。

 話は前後するが本文の主題は浅水の「早苗ちゃん」である。私の友人のお母さんが浅水の出で、9月末の福井新聞を見て呟いた。「池田のさなえちゃんがフランスで亡くなった」と。お母さんは早苗ちゃんとはご近所で同級生だったというのである。彼女によると早苗ちゃんのご兄弟やお母さんも踊りが堪能で、近隣の人々がお祭り時の舞台を楽しみにしていたとのこと。

 自らは一言も出自を語らず、遠く異邦の地に倒れた池田早苗ちゃん。彼女こそ麿赤児が率いた暗黒舞踏派最後の舞姫、カルロッタ池田である。

ブックカフェゴドー 店主   栗波和夫