月別アーカイブ: 2012年10月

太宰治著、小説「トカトントン」

 先日、求められて書いた越前市図書館会報の原稿を転載します。

 整理の悪い私の蔵書の中から会報に読書感想文を書こうと思っていた太宰の短編小説「トカトントン」を探すことを早々に諦めた。そして、安易にウエブ上でこの短編を取り出して、読んでみることにした。検索したこの著作権の切れた太宰の小説「トカトントン」はウェブ上では太いゴシック文字でしかも横書きであった。

 ここで無粋なゴシック文字を諦めて、図書館へ出向いて太宰治の「ヴィヨンの妻」を探し、その中の短編小説「トカトントン」を読めばよかったのである。しかし、めんどうなのでこのデータをもとに、強引に「友の会」会報のテーマであるミステリーという趣旨に合う文章を書き始めたのである。

 ところが不思議なことに少年時代にあんなに思い入れをして読んだ太宰の「トカトントン」がさっぱり腑に落ちない異質な、船大工の金づちの音である「トカトントン」になってしまっているのである。つまらない駄文であり、小説が壊れてしまっているかのようである。

 考えてみると、日本語で書かれた小説はやはり縦書きでなければその文体の余白というか、思考の有り様が失はれてしまうようである。小説が戦後の大江健三郎や村上春樹など、西洋文学から影響を受け書かれた文体であるなら横書きでもあまり違和感がないのかもしれないが、日本近代文学以降の小説であるなら横書きでは苦しい気がする。

 私は太宰治から島尾敏雄そして中上健次に至る日本文学の小説の系譜の中に不器用で、もどかしいけれども文学的格闘の痕跡というか日本文学の根拠があるのではないかと考えている。この日本語と自らが立ち会った日本の思想的風土に対する確執を抜きにしては文学が耳ざわりの良い万国共通の物語になってしまう。ま、それを良しとする文学的風潮であるなら私の方がそこから去れば良いだけの話ではある。

 この稿を書いている途中で何故か論旨が混乱し始めてしまった。当初書く予定であったラフカディオ ハーン(小泉八雲)にすればよかったとテーマを間違えたことを悔いた。しかしウェブ上で太宰の「トカトントン」を目にしたことで見えてくるものがあって、結果的には正しい選択であったとも思う。

 玉川上水での自死まで三年、惨憺たる敗戦による崩れた価値の転換の中で太宰は小説「トカトントン」を書き、戦後日本の「何」と命懸けで格闘していたのであろうか。

 太宰は人騒がせな駄文書きか、日本第一級の小説家であったのか。
 越前市図書館で本をお借りして是非一度読んでみてください。