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佐賀県有田から小曾原にきた戸田君

 秀吉の朝鮮出兵時に唐津の鍋島某により半島から渡来した陶祖、李参平ゆかりの地、佐賀県有田市から戸田君がやってきた。

 戸田君とはいっても古い友人ではない。昨日、小曾原郵便局の小さな温泉施設の駐車場で見かけた青年である。暇な老人ばかりがやってくるこの温泉に、若い人は珍しいなと思いながらすれちがった。先客は私より年長のひと一人だけだった。あまり大きな施設ではなく5,6人も入るとちょっとくるしいので、ひとまず安心した。掛け湯をして湯船に入り硝子戸を全開にした。セミの大合唱を除けば、夕暮れが近いせいか空が赤く染まり、なかなか捨てがたい瞬間であった。

 そして戸田君が入ってきた。とはいっても知り合いではない。膏薬を張ったままで掛け湯もしない行儀の悪い老人が多い中で、戸田君は丁寧に体を洗ってから湯船に浸かった。しばらくして戸田君が私に「ここのお湯は湯質が良く、皮膚がつるつるになりますね。」と声をかけてきた。そしてどこから来たかとか、福井県陶芸館で開かれている小山富士夫展についての感想などを二人で話しあった。

 先日私も小山富士夫展の初日に訪れていた。小山富士夫は越前焼きを織田の水野九右衛門と共に日本六古窯認定など、多大な貢献をされたかたである。各地の古窯跡の発掘と研究もさることながら、作品は多種多様、色々な試みがなされ興味深く見ることができた。しかし、作者と作品を知るためのカタログもなく主催者の熱意の感じられない企画であり、残念な気がした。福井県が、指定管理者という株式会社に陶芸館を管理させるというプロセスに越前焼き産地の劣化が垣間見れる。

 戸田君はこの夏、仕事を辞め次の仕事の準備のため佐賀県から寝具を積んだ車で各地の陶芸産地を経て6日目。福井県陶芸館に小山富士夫展を訪れ、併設されている常設展で塚原芥山の作品と出会う。彼が訪れた時、来館者は皆無で係員はいねむりをしていたという。アルバイトの係員を責めるつもりは毛頭ないが、この先の越前焼きの衰退が予見される。若き陶芸家たちが苦難の淵にあり、創作をあきらめて小曾原を去る前に打つべき方策はあると思われる。

 小曾原の温泉で戸田君と別れて越前市北府の「つる庵」で天丼を食べてから帰店した。すると驚いたことに戸田君が来店していた。つい商売っ気をだして温泉の脱衣所でブックカフェを武生でやっている旨を告げたせいで、わざわざ店を探して来てくれたのである。恐縮してしまった。

 戸田君は有田の人で、しかも若い方なのに、以前から私が熱く語っていた塚原芥山の作品についての深い見識もあり、又、加藤唐九郎の黄瀬戸の件についても語る言葉を持っていた。私は芥山の作品も唐九郎の黄瀬戸も身近に手にしたことがあったので久々に二人して遅くまで語り合うことが出来た。

 塚原芥山については福井県内の戦後文化人に好まれてきたという印象が強かったのであるが、陶芸にかかわる人が気にかけているというのは私の知る限り、寝屋川の陶芸家石田博と戸田君だけである。いみじくも二人とも遠方の方である。

 型による量産であるが、再び磁器の焼き物を目指すという戸田君!この先、有田の地でよき仕事ができることを祈るばかりである。

平成27年8月7日

ブックカフェゴドー店主   栗波和夫

本の行方 その1

あべ川
 ゆきばのない街が真夏の陽光に晒され、揺らめいている。この暑い季節がやってくると、もうすぐ武生は馬借街道、高瀬町の河濯山(かわっさん)祭りだ。

 先日、写真家で建築の仕事をされているKさんから久しぶりに電話がかかってきた。用件は彼が家屋新築を担当している福井市内の古い物件に関して、すぐにでも解体するので中にある不要な本などを引き取ってもらえないかというのである。「本は捨てられない」という思いのKさんであるから、武生駅近くでブックカフェを開いている私に声がかかった。

 午後から仕事もあるし、炎天下、福井まで冷房のないガタガタの軽トラで本をいただきにゆくことを思うとてもと辛い。しかしせっかくのお誘いを断ると二度と声をかけてくれないかもしれないので意を決して出かけた。

 現場は本通りから少し入った住宅密集地で、周りには指物屋や畳屋などがあり、かつては下町の職人たちの住む集落を思わせた。目的地である木造の古い母屋も活版印刷を生業にしておられた小さな工房で、先年ご主人が他界され、そのまま長く空き家になっていたようである。

 車を工房のわきに停め、奥様にご挨拶をしてから本や雑誌を軽トラの荷台に運び入れた。これらの本は長い間積み置かれていたようで、埃がまんべんなく積もっていた。そのせいで保存すべきものか、リサイクルに出すべきものか判別すらできなかった。奥様には、読み継がれるべき本は整理して店の本棚にコーナーを設けるつもりですと、お礼を述べて帰路に就いた。

 途中、せっかく福井まで来たのだから「蝋(ろう)金(きん)」の三角あべかわを買って帰ろうと足羽山の麓に向かった。先週木曜日、「蝋金」は定休日であべかわを買えなかったし、そのまえには売り切れだった。今日はまだ昼前、くそ暑いし誰も餅なんか買いに来ていないだろうと思って立ち寄ったのだが「売り切れ」の看板が風に揺れていた。ざんねんでした。

 さて問題は、三角あべかわではなく、いただいてきた本である。軽トラの荷台で半日陰干しし、風を通し埃を払った。本の中には包装してあるものや木の箱に入っているものもあり色々で、良い本がありますようにと祈りながら荷を解いた。本の半分くらいは短歌の冊子の束で他には県内の短歌愛好家の自費出版の本であった。少し落胆しながらほかの荷を解くと驚いたことに私が30年ほど前に必死で探していた「塚原芥山書簡集」が新品、包装された状態で出てきた。思わず声を上げてしまった。この書簡集は、才有りながら若くして他界した陶芸家「塚原芥山」が、今立の南中山小学校代用教員時代の教員仲間である坪谷元三郎にあてた珠玉の書簡集である。

 戦争が近付く殺戮の気配の中で芥山、福井刑務所近くの足羽川河原に掘立小屋を建て、登り窯をつくる。みずから陶土を集め作品を制作し、三日三晩窯を焚き続けていた。その試行錯誤の中で書き継がれた書簡で、坪谷元三郎への金の無心と創作の苦悩が書き継がれていた。当時、教員の収入は少なく、その薄給の中から坪谷は芥山の作品を買い求め、支援者を集めていた。

 後日、ふとしたことから坪谷元三郎の奥様が武生の北府駅近くにご存命であることがわかり、お訪ねした。その折、いくつかの作品と書簡のすべてを拝見させていただいた。芥山が書いた走り書きの挿絵はおもしろく、ふと蕪村を思わせた。

 しかし保存されていた芥山の焼き物は、試作の域を出ず完成品はなかった。失礼を顧みずほかに作品はないのか尋ねたところ、ご子息がいうには、請われてすべて手放したとのことであった。ちょっとさみしい気がした。

 坪谷宅をおいとまするとき奥様に、どうしてご主人はこれまで塚原芥山を支援していたのですかという愚問を投げかけてみた。するとひとこと「おなじでしょ」とゆっくり穏やかに微笑まれた。「おなじ」とは丹南の方言でめぐり合わせという意味あいである。深い言葉である。

 このたびこれらの本を譲り受けることになった方は戦後福井の文芸の中心にいた人のようで、他の本の中にも地方の文化にとって捨てがたき本が散見された。その中に越前豆本三十四巻があった。それぞれデザインされた紙に包装されていたため美しい状態で保存されていた。

 わくわくしながら最初の本を開くと彫刻家で京極流ハープ奏者の雨田光平の小エッセイが目に付いた。なんとその話題が「蝋(ろう)金(きん)」の三角あべかわについてであった。まさに金沢せせらぎ通り「オヨヨ書林」、不思議なめぐり合わせである。  以下次号

015年7月30日午後

ブック カフェ ゴドー店主  栗波和夫