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土地の記憶 武生の街も捨てたものじゃない

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2016年1月19日
忘れていたころに猛烈な寒波がやってくる。
この風の強い日の朝、私の店のある府中町に隣接した、越前市銀座通りにある蔭山茂樹さんのお宅を初めて訪問する。蔭山氏宅の端正な玄関先には小ぶりのアンモナイトの化石と細身の木像がさりげなく棚に置かれ、壁には寒椿の尺四方の書画が掛けられている。我家の無国籍でわやくさな玄関とは趣に千里の径庭があり、いきなり深く打ちのめされてしまった。

「花を散らす風に心を悩ます春が過ぎ、
大地より湧き立つ草いきれに胸を躍らす夏が去り
流れる星に祈りを託す秋が終わると、
掌で消える雪に現人のはかなさを思う冬が来ます。

夏しか知らない蝉とは違い、人は季節から過ぎ去った歳月が二度と戻らないことを教えられます。しかし、人は若さを謳歌する時、わが身の老いや死には思い至らない生きものなのか、やがて来る玄冬の寒さを忘れているようです。」
蔭山茂樹著「与謝野晶子と興都庵主」まえがきより

この日、蔭山氏宅を訪れたわけは、越前市の図書館に勤めていた方の注文で無垢の木のテーブルを作りに池之上の工業試験場に向かう車の中でふと耳にしたことに始まる。天板にする欅材があまりに重く運搬をk氏に手伝ってもらった。その車の中で郷土出身の天皇の料理番秋山徳蔵の話になり、腕のいい料理人といえば他にも武生出身の竹内宇助という方がおられたというのである。

竹内宇助。千八百六十六年(慶応二年)、福井県今立郡北日野村岩内(現越前市岩内町)生まれ、早くに実母を亡くし、在所にゆかり薄く明治十四年十五歳で単身上京、料理人を目指し、苦難を重ね、その後、時の大蔵大臣井上馨に贔屓にされ、麻布桜田町、現在の六本木ヒルズあたりに料亭「興都庵」(おきつあん)を開店した。客には福井県ゆかりの岡田啓介など著名な方々が訪れていたとのこと。また開店の挨拶状の草稿は与謝野晶子であり巷間の話題をさらった云々というのである。

そして、晩年竹内宇助が招請した与謝野晶子の武生来訪についての経緯も含めてこの蔭山さんという方が著作に顛末を書かれている。その本の中のいくつかの文章が極めて示唆に富み興味深い内容であるから一読するよう勧められた。

それは旧東小学校の近くの石造りの市立図書館の前にあった大きな栃の樹を巡る切なく悲しい思い出。吾妻町銀座通りの再開発前の様子、そして満州に従軍し病に伏し、難民として大陸を彷徨い帰還した忌まわしき戦争への思い。

私が幼少のころ母が旧東小学校に勤務していたのでその図書館で母を待っていた記憶がある。少し暗かった図書館の鉄の窓から、そういえば木々の葉が揺れていたような気がする。今では幻のようにも思えるがそのかすかな記憶が私の中にいまだ残っている。

おぼろげな私の記憶はさておき、蔭山茂樹著「与謝野晶子と興都庵主」である。家業の表具業を営む中で知人から譲り受けた与謝野晶子の条幅一幅と晶子からの興都庵主竹内宇助にあてた書簡一通を手掛かりに、一人の人間が時代やそれぞれの環境に翻弄され続ける中で、それでもしぶとく自らの哲学のようなものを保持する潔さを物語っているように思える。

与謝野晶子。十代の時に読んだ源氏物語に傾倒、紫式部を師とし、生涯二度にわたって現代語訳に取り組む。明治から昭和初期、政治も文学も人々も等しく大政翼賛会に雪崩るる中、旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて「君死にたまふことなかれ」と反戦の旗を掲げる。文学が悪しき時代に迎合すべきではないと主張。それ故文壇から排除されるが、十一人の子を育て不調のご主人を庇護しながら歌を書き続ける。その不遇の与謝野晶子夫妻を竹内宇助は生涯支援していた。この興都庵の客には文人墨客から学者、政府要人の集うところになり、そこに昌子夫妻と子供たちもよく訪れていたという。

千九百三十三年晩秋、竹内宇助が幼なじみの前田甚兵衛とともに与謝野晶子、鉄幹夫妻を武生町に招請し村国山の麓「いただきの亭」(竹内宇助の別荘)に迎えた。日野川対岸の料亭「魚留」の仕出し料理を注文、ご主人が吟味した料理を自ら届けに来たとのこと。また国分寺など地元の古刹をめぐり味真野の毫摂寺(ごうしょうじ)まで足をのばしここで揮毫した。寺には千九百九十五年昌子の歌碑が建てられている。

もう十年余り前になるがまだ元気だった母と毫摂寺で開かれていた地元の文化祭の催しを訪れたことがある。その折与謝野晶子の歌碑を見た様な記憶があるが定かではない。むしろ大猪を退治したという「のゑ女」の像を何故か覚えている。冬の嵐が去り根雪が解けた頃に五分市(ごぶいち)まで出かけて与謝野晶子の歌碑を探しに行くつもりである。そして門前町で手焼きの名物「のゑ女」せんべいを買ってみようかな。

ブックカフェゴドー店主