龍泉寺界隈のこと


初代府中藩主本多富正の菩提寺である龍泉寺は越前市の深草にある曹洞宗の古刹である。この寺の裏に操業をやめて久しい敦賀織物という工場があった。この工場の地中には武生の来歴に関わる古代の記憶が多数残されていた。その遺跡は市民に公開もされることもなく埋め戻され、跡地には今風にデザインされた瀟洒な住宅群が完成した。

この土地と住宅は越前市の税収に大いに貢献している大虫の村田製作所の社員宿舎として市の方から斡旋されている。思えば子供のころ、先の天皇陛下が花時計のあるこの村田製作所を訪問された折には武生西小学校の生徒だった私は、日の丸の小旗を振ってみんなで砂利道に並んだ記憶がある。

昭和30年代、当時私は北深草町に隣接した老松町に住んでいた。この深草のあたりは私が幼少のころ、工場の機織の音が五月蝿いほど竹やぶに響いていたし、小規模な鋳物屋、鍛冶屋などが炉のコークスに火を入れ鉄を敲いていた。龍泉寺の裏の墓場の西側には土塁も残り、そこは満州や朝鮮からの引き上げ者の小住宅に開墾されていた。住宅には従兄弟たちが住んでいたのでよく群れて遊んでいた記憶がある。

また寺の北の藪には朝鮮の人たちが小屋を建て豚を飼いながら、近隣の竹薮から竹の皮を集めて成型し、肉屋、餅屋に納めて生計を立てていた。戦後のどさくさとはよく言ったもので、みんな貧しく、なりふり構わず生活をしていた。日本の私たちの世代が進学や就職へと奔走していた時期に同級生だった朝鮮の友人達は仕事もなく悪れていたが、その後、新潟から祖国へと帰還していったようだ。その後の彼らの消息を私は知ることもない。

今考えればこの地域は憎悪と熱情のカオスとでも言うべき様々な思いが密集した場所であった。またこの時代、戦後の農地解放で小作の人たちに広大な田畑をただ同然で分配することとなった稲寄の森広三郎氏が推挙され武生の市長に当選された。一介の労働者であった私の父や母が穏やかな学者のような森氏を支援していた記憶がある。

最近、知り合いの不動産業協会の人にお聞きした情報によると、森広三郎氏の長女でフランス料理文化センターの事務局長である大沢晴美さんがフランスの食文化振興に多大な貢献をされ、国家功労勲章シュバリエ賞を受賞されたとのこと。

私は以前、漆とクラフトの商品展開で闇雲に海外を目指し、随分苦労したことがあった。武生と縁のある大沢晴美さんが武生特殊鋼材の開発した鋼を使った越前打ち刃物の美しい文様のあるステーキナイフやチョコレートカットナイフなどをヨーロッパの著名なシェフや業界に紹介され、現地で好評を博しているという。

パリからの風の便りで池の上の刃物団地の「ryusen」さんの商品展開の様子を聞くと、地位や名誉ばかりで顕彰しあっているなれあいの空虚な風土ではない、良質な土地の記憶のようなものを育む事ができるかもしれないという希望のようなものを思った。この名実共に卓越したブランドに育ちつつある「ryusen」は北深草の「龍泉寺」とどこかで何か繋がっているのかな。龍泉寺界隈の憎悪と熱情のカオスが時を経て研ぎ澄まされ、パリやアムステルダムの街を席巻するなんて考えるとぞくぞくするな。

2016年11月30日            ブック カフェ ゴドー店主  栗波和夫